歴史

歴史
約1,300年の歴史を誇る

奈良時代、行基によって開かれ、 平安時代、弘法大師の修行の聖地に

天野山 金剛寺(以下、金剛寺)は、奈良時代、天平年間(729~749年)に聖武天皇〔しょうむてんのう〕に帰依を受け、日本最初の大僧正の位を授けられた和泉国出身の高僧の行基によって開かれたといわれています。また、平安時代に弘法大師(空海)が修行した聖地といわれています。

ご詠歌: はれわたる 天野の宮の 金剛寺 古〔ふり〕にし蹟〔あと〕も 畏〔かしこ〕かりけり

400年のあいだに荒廃。女人高野として再興

金剛寺は、その後400年のあいだに荒廃してしまいます。しかし、平安時代の終わりに高野山より和泉国阿出身の阿観上人が、この地に入られ、後白河上皇とその妹の八条女院の篤い帰依と庇護を受けました。そして阿観上人は、高野山より真如親王筆の弘法大師像を拝受し御影堂を建立し、弘法大師御影供の法要を始められると共に、金堂、多宝塔、楼門、食堂などの伽藍を再興してゆきます。その縁をもって、金剛寺は、八条女院の祈願所となりました。
その後、歴代女院(宜秋門院・春華門院母子、嘉陽門院)の祈願所となり、さらに八条女院の女房をはじめ歴代女院女房が四代にわたって院主〔いんじゅ=住職〕となりました。これ以後、貴賤を問わず多くの女性が金剛寺に帰依し、「女人高野」と呼ばれています。

南北朝時代には南朝方の拠点に

境内図

鎌倉時代の終わりに、金剛寺は、後醍醐天皇の倒幕に味方した当地の武将楠木正成が戦勝祈願を依頼したり、学頭禅恵と後醍醐天皇の腹心文観との関係から、南朝方と深く結びつきました。南朝の後村上天皇が正平9年(1354)から5年にわたり、子院の「摩尼院と「食堂〔じきどう〕」を行宮*としました。その間、3年あまり、京都から連れ去られてきた北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)及び直仁親王が、子院「観蔵院」に幽閉されたことがありました。また、次の長慶天皇も文中2年(1378)から4年余り行宮とし、足利幕府軍と対峙しました。
*天皇が行幸のとき、旅先に設けた仮宮(仮の御殿)。

信長や秀吉など天下人の庇護を受ける

楼門

南北朝が終わると、南朝への負担がなくなり、寺領から産出される米や木材、炭が商品作物として、寺の経済を潤し、子院が90以上を数えるほどに興隆しました。特に山内で醸造された「天野酒」は、室町時代から三大美酒の一つとして名を馳せ、全国に流通しました。また、織田信長や豊臣秀吉などの天下人や大名衆に贈られ、その庇護を受け、幕末まで307石の寺領を所有していました。
そして、慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって、また、元禄13年(1700)には、幕府の命により岸和田藩主岡部美濃守長泰が奉行となって、伽藍や仏像などの修理が行われています。

300年の時を経て、生まれ変わる天野山 金剛寺

元禄時代の修理から300年間、金剛寺では大規模な修理は行われませんでした。そのため、永年の風雨に耐えた建物に、沈下や歪みが生じていました。

そして、300年の時を経て、平成21年(2009)から平成29年に、金堂・多宝塔・鐘楼の修理が行われました。同時に金堂に安置されているご本尊の大日如来坐像、脇侍の降三世明王坐像、動明王坐像の三尊の仏像も修理されました。
現在、金堂の三尊をはじめ国宝5件、伽藍の建物はじめ重要文化財が29件指定されています。

募集のお知らせ

天野山金剛寺では、法要・文化歴史などにご興味があり、天野山金剛寺の護持発展にご協力いただける方には、天野山金剛寺奉賛会への入会をご案内しております。
詳しくは、下記へお問い合わせください。

天野山金剛寺奉賛会事務局
(天野山金剛寺内)

天野山金剛寺
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